☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 関野吉晴 × 内田正洋(海洋ジャーナリスト) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
関野
今日のゲストは内田正洋さんです。内田さんはシーカヤッカーですが、海洋冒険家や海洋ジャーナリストと紹介した方がいいですね。
実は、内田さんは僕のシーカヤックの師匠です。20年ほど前、グレートジャーニーの旅の最初に、南米のマゼラン海峡を漕ぐ必要があったのですが、その時に教えてもらいました。
内田
随分、古い話ですね。
関野
ええ。三浦半島や伊豆で練習したんですよね。でも、内田さんは漕ぎ方を教えてくれませんでした。ただ、漕げって言うだけで(笑)。
内田
漕げば、海が教えてくれるっていう感じです(笑)。
関野
マゼラン海峡も一緒に漕いでくれました。
内田
懐かしい話ですね。
その後は、映画にも出てきた渡部君が引き継いでくれました。
関野
今日初めて映画を見て頂いたのですが、少しだけ感想をお願いします。
内田
やはり、この映画は震災を挟んでいたというのが、何か意味を感じますね。
3月11日、自分は横浜の海を漕いでいました。その日は午前中から海に異変があってね。港の中に普段は無い流れがありました。それはありえないことで、おかしいよなって、そのとき一緒に漕いでいた仲間と話していて。
関野
海でも地震を感じましたか。
内田
いえ、地震があった時は昼飯を食いに陸に上がっていて、もう一度漕ぎ出す直前でした。ビルが大きく揺れていましたね。それで、午前中の港の流れを思い出して、これはでかい津波がくるぞ、とカヤックを引き上げて縛り、歩いて避難を始めました。
実際、午後5時くらいまでに4回ほど横浜にも津波が来ましたね。あの日は小潮で、地震のあった頃は、海面が下がった状態から上がり気味の時間帯でした。それが、いきなり3mくらい海が引いて、次の瞬間、今度は4mくらい上がって……。
横浜にある我々の艇庫も、一段目が全て水浸しになりました。もし、あの日が大潮で満潮に近い状態だとしたら、横浜も堤防を越えて海水が入ってきているなと思いました。
だから、全然人事じゃなくて。
関野
なるほど。
内田
あの時は東海地震が起こって、東京湾にも大きな津波が来るのかと思っていました。だから一緒にいた仲間と、いつ津波が来るのか、もし来たら、あそこのビルの外階段を上ろうぜ、と話しながら、港から5kmくらい歩いて逃げました。
ただ、これはまずいと思ったのが、夕方5時頃に本当に津波が来た時、街の人たちは全く気付いていなかった。あの状況で海のことを気にしてない人が多かった。
それで、翌日家に戻ったのだけど、死者何千人という情報が流れていて……。結局2万人弱の方が亡くなられたよね。その人たちの人生が突然消えたというのは、どういうことなのかと考えてしまって。この映画はその震災を挟んでいるということ、それを深めて考えていくと、とても意味があるなと思いました。
俺はこの映画を娘に見せたいですね。今、ちょうど世界をまわっているから。
関野
内田さんの娘さんはホクレア号っていう、ハワイの伝統航海カヌーにクルーとして乗っています。昨年、ハワイを出航して、世界を周っている途中ですよね。
内田
まあ、縄文号より、もう少し速いですけどね(笑)。
最近ではハワイからタヒチを14日間でいけるようになりました。
関野
縄文号だったら2年くらいかかりますね(笑)。
内田
伝統や技術はすぐに忘れてしまうよね。この映画の中でも、インドネシアの船大工が電動工具を使わないと舟は作れないと言っていました。縄文号のようなパターンは続けなきゃいけないですよね。この映画のような舟造りや航海は、誰かが次に繋げていかないと。
沖縄にサバニという伝統的な帆を使った漁船があります。一度廃れかけたのですが、2000年からサバニレースを始めたことで、サバニの帆走技術がよみがえりました。今では100人くらいにサバニを帆走できる人が増えています。それも続けないと、途切れてしまいますよね。
関野
縄文号やパクール号の帆はヤシの葉から作ったもので、30年前まであった製法を地元の方に思い出して織ってもらいました。あと、塗料は伝統的なレパという漆喰を使いました。隆起サンゴから石灰を作り、ココヤシからココナッツオイルを採って……。
内田
あの白い船体は漆喰を塗っていたんですか。
関野
そうです。隆起サンゴを焼いて水をかけると消石灰になり、ココヤシの果肉を鍋で煮詰めるとココナッツオイルが採れる。その石灰と油を臼に入れて木の棒でつつくと、ねばねばしてきて漆喰になります。
面白いのが、それを刷毛で塗らないで、青いパパイヤの皮を削いで刷毛の代わりにしていました。それも30年前までやっていたそうです。ただ、そういった古い技術もどんどん消えてしまいます。
内田
なるほどね。
関野
船の部品を結ぶのは、今では全部テグスですね。非常に強度があるのですが、自然素材ではないので、僕たちのルールでは使えません。縄文号やパクール号には籐をはじめ、シュロやイジュックというヤシの繊維から作った縄を使用しました。
内田
色々なこだわりがありますね(笑)。
まあ、こだわらないと意味が無いですもんね。
関野
中途半端にこだわってもね。
例えば、インドネシアに設計図を持っていって、舟大工にこういう舟を作りたいと説明して、半年後に戻って来る方が効率はいいよね。そうしないのは、自分たちの手間や時間をかけることで、色々な気付きがあるからで。
内田
関野さんが二十数年やってきたことの意味は、日本の社会がもっと早く気付いて欲しかったと思います。ただ、これから気付いていく人はおそらく増えるでしょう。だって、俺も東京海洋大学で教えているけど、関野さんも武蔵野美術大学で教授をやっているし、自分たちが大学の先生というのが変だよね。
関野
僕も変だと思っていて……。
だって十数年前まで、先生になるなんて考えてみたこともなかったし。人に教えるなんてありえないことで。
内田
ありえないですね。だから、そこは社会が変化してきたのかなって思いますね。
〔記事:佐藤洋平〕
対談者プロフィール
内田正洋
1956年長崎県大村市生まれ。
シーカヤッカー/海洋ジャーナリスト。
一般社団法人「海洋緑化協会」キャプテン。日本レクリエーショナルカヌー協会理事。82年よりパリ・ダカールに出場し始め、以後91年まで8回 の参戦を果たす。87年からは、日本にシーカヤックを紹介し文化の牽引役となる。その後、台湾から東京湾までの海域をシーカヤックで漕破。パリから北京まで自動車でのユーラシア大陸横断も敢行。 南米大陸の南にあるフエゴ島から南米大陸最南端までシーカヤック遠征。97年には日本初となるシーカヤックのノウハウ本「シーカヤッカーズハンドブック」を出版。98年にハワイの古代式カヌー「ホクレア」に出会い、以後「ホクレア」の世界を日本に紹介し続ける。07年にはハワイから日本へ航海した「ホクレア」のサポートクルーを務めた。08年からは東京海洋大学の非常勤講師としてシーカヤックを教えている。